カフェ巡りが楽しくない!

読書

蝉がいっせいに鳴き始め、今年も暑い夏がやってきました。
皆さま、いかがお過ごしでしょうか。

さて、せっかく美しいラテアートの写真を載せておきながら、なんだか嫌なタイトルになってしまいましたが…

この「カフェ巡りが楽しくない!」こそ、前々回の投稿の終わりに書いた私のもう一つの悩みでした。

コーヒー好きな私にとって元々カフェ巡りは一番の、と言っても過言ではない趣味でした。

自分好みのドリップコーヒーやカフェラテを探し求めたり、雰囲気の良い店内でコーヒーを片手に本を読む…。

そんな過ごし方が大好きで、Google MapやInstagramで気になるカフェを見つけては、休日の午後に訪れていました。

しかしある日、Instagramでおすすめされていたカフェに初めて来店しコーヒーを飲んでいるとき、ふと「あれ、なんか全然楽しめていない…」と感じてしまったのです。

新しいカフェに出掛けてコーヒーを飲むことが、なんだかノルマになっているような…。

たまたま疲れていただけかもしれないと、その日の感情はなかったことにしようとしましたが、一度感じてしまった違和感は雪だるま式に大きくなっていきます。

翌週も、そのまた翌週も、お気に入りの本を持って行っても、ずっと前から行きたかったカフェに出掛けても、以前のようには楽しめない自分が気になって仕方がありませんでした。

「新しいカフェに行くことが楽しくない」…これって気持ちの面で老いてしまって、刺激より安定を求めているのか。
それともコーヒーを飲み過ぎて飽きてしまったのかな…などと考えていました。

前々回ご紹介した國分功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」に出会ったのはちょうどその頃でした。

なんとその本には、私の身に起こっている現象がばっちり解説されていました。

私はどうやら、完全に消費社会の論理に巻き込まれていたようなのです。

どういうことかというと、まず人は消費するとき、物自体を受け取るのではなく、物に付与された観念や意味を消費しています。

物自体を受け取るのであれば、物の受け取りには限界がありますから、どこかでストップします。
(満腹になったら食事が止まる、などの例が挙げられます)

しかし、消費の場合は物に付与された観念や意味を消費するため、限界がなくストップすることはありません。

さらに、いくら消費を繰り返しても満足がもたらされないことから、消費は次第に過剰になり、過剰になればなるほど満足の欠如が強く感じられるようになるというのです。

これをカフェ巡りに当てはめると、私はカフェでいただく飲み物やそこで過ごす時間そのものを受け取っていたのではなく「SNSで話題のカフェに行った」という観念をひたすらに消費していたことになります。

しかも、SNSは無限に新しいカフェを紹介してくれます。
またそのカフェにも行かなければなりません。

これを繰り返すうちに「まだあのお店に行けていない」という状態に我慢が出来なくなり、それこそノルマをこなすように無限に提供される新しいカフェを巡り、いっそう満足感から遠のいていったのだろうと思いました。

最初はカフェ巡りを純粋に楽しんでいたのに、気づかぬうちに精巧な罠にハマってしまう…。
人を消費に駆り立てる消費社会の恐ろしさを感じました。

やっぱり私は大好きなコーヒーやカフェを楽しみたいし、終わらない消費のサイクルから脱却して物自体(カフェでいただく飲み物やそこで過ごす時間そのもの)を受け取れるようになる方法は、これから自分で試行錯誤していくほかありません。

しかし、ひとまず原因らしきものが分かっただけでも大きな進歩だと感じています。

「今、自分はこういう状態(=消費社会の論理に巻き込まれた状態)になっているのだな」と外側から自分を見ることができるからです。

それにしても、はじめてこの本を見かけたとき、まさか私の「カフェ巡りが楽しくない」という悩みのメカニズムを教えてもらえるとは思いませんでした。

本からヒントを得るつもりで購入した訳ではないのに、気が付いたら本に助けられていた…。
たまにこういうことがあるから、本屋さんって不思議な場所だなと思います。

皆さんも同じような経験はありますか?

それでは、また。

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